菅野健の“いま、なにつくってるの?”第7回の登場は、DONAさん。
2002年、大学3年生から制作を続けている『PARADISE』は、現在B1用紙45枚とB2用紙11枚が連なる約9m×5mにも及ぶ大作。まるで曼荼羅のように精緻なモチーフと、幻想的な色彩によって浮かび上がるいくつもの物語が、見る者を惹きつけてやみません。大学時代の思い出の通学路を散策しながら、壮大なライフワークとともに歩み続ける彼女の素顔に迫ります。

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菅野:玉川上水は江戸時代、水不足を解消するために多摩川から江戸の町へと引かれた上水路。人々の生活を潤す「命の水」として、近世・近代初期の江戸の暮らしを支えてきたそうです。
西武国分寺線 鷹の台駅を降りて武蔵野美術大学へ向かう、この木々に囲まれた遊歩道がDONAさんの通学路だったのですね。DONA:4年間毎日通っていた道なのですごく懐かしいです。特に、春夏の新緑の季節が爽やかで大好きでした。駅前からこの遊歩道に入った瞬間、一気に空気が変わるんです。
現在は“アーティスト”として描く『PARADISE』の制作と、“イラストレーター”として多面的な表現を駆使するクライアントワークと、全く異なるチャンネルを使い分けて創作活動を並行されているDONAさんですが、小さい頃はどんな風に絵と向き合っていたのですか?
物心ついた頃からお絵描きに夢中でした。一人で絵の中の世界に没頭して楽しんでいたんです。幼稚園の頃は絵本、小学生の頃はマンガやキャラクターを描いたり、中学生くらいの時にはダリが好きだった影響もあって、少しダークな雰囲気の絵を描いていたこともあります。今考えてみると、受験勉強ばかりに追われていた時期だったので、その心境が絵に反映されていたのかも知れません(笑)。
高校生の頃はカラフルでポップなデザインや写真に惹かれたり、大学に入ってからも海外旅行や数多くの美術館、ギャラリーで見たものに影響を受けながら、さまざまな作風で絵を描き続けていました。

DONAさんにとっては、自分のスタイルを模索している時期だったのでしょうね。
大学3年生の始め頃、授業中に友達がハイテック-Cでラクガキをしているのを見て、緻密な絵が描けるのが可愛いなぁ…って。一度ペンを借りてみたら、止まらなくなってしまいました。
自分らしく描ける画材に出会い、一年くらいペンで色々と描いていた頃に、大好きなUAのライブをきっかけに私の中の“何か”が目覚めたんです。
- 突然何かが降ってきたように、“描かなきゃ”という想いに駆られた
ライブの最中は、UAの生の歌声に感動して、ずっと放心状態。でも帰りの電車の中で、突然、自分の中に“絵が降ってきた”感じがしました。
その翌日から一週間ほど、とにかく描き続けたんです。手が動かなくなってしまうくらい。部屋にこもりっきりで、両親にもかなり心配されました。

そうして『PARADISE』が生まれた。DONAさんの中で、そのような体験はよくあるのですか?
音楽を聴くことで絵のイメージが湧いてくることはありますが、その日は特別。とにかく“描かなきゃ”って思ったんです。
閉じこもって描き続けていた間、自分の部屋にいるのに、魂はそこにはないような、“トリップ感”がありました。それは長い時間かけて描き続けた果てにようやく得られる感覚で、“これは面白いぞ!もっと続けたい!”という欲求がどんどん膨らんでいったんです。
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現在のように大きな作品になると予想していたのですか?
最初に出来上がったのはB1用紙2枚が対になった作品。その時はつながっていくイメージはまだありませんでしたが、その後も“とにかく描き続けたい”という気持ちに動かされて、卒業制作として引き続き取り組もうと決めたんです。
自分のやるべきことを見出したDONAさんの、揺るぎない想いによって生まれた作品を見て、教授はどんな反応をされましたか?
卒業制作の講評で「君、気が狂ってるね」と言われたのが印象に残っています(笑)。
それまでは進路のことを何も考えていなかったのですが、『PARADISE』を描き続けたいがために、多摩美術大学大学院への進学を決意しました。

大学院在籍中はひたすら制作に集中できる環境があったので、毎月1枚のペースで描き進めることができたんです。当時は、ペンだこで指が変形していましたね。
それに、いくつかのコンペに応募して賞をいただいたり、色々な場所で展示経験を積んだり。外に友達がたくさん増えたし、海外旅行をしたことも創作活動に活きています。
